ペルシャ絨毯は、この地球で、唯一踏むことを許された芸術品。 *
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ペルシャ絨毯の産地

 

定住民

  最近では彼らも次第に定住民となり、遊牧民の数は減少の一途を辿っています。住所不定では微税も徴兵もままならぬ とあっては、政府が彼らの定住化にやっきになるのもわからぬではありませんが、ペルシャ絨毯に楽しい彩 りを添えた小さな花が、一つまた一つと消えていくのは寂しい限りです。幸い現在のところは、イラン各地にまだいくつかの少数部族が健在で、絨毯作りに勤しんでいます。しかし近い将来、絨毯を部族名によって識別 する必要がなくなる日が来るでしょう。  イランという国は、その気候や住民の文化的な背景によっていくつかの地方に分けられ、絨毯もそれらの地方ごとに異なる特徴を示しています。そこで、ここでは、イラン全士に散在する産地と部族とを北西部、西部、中部、南部、東部の5つに分けてみました。とはいえ、すべての絨毯が、この5つのうちのいずれか一つの範囲内に納まるということではなく、2つの地方の境界付近にある産地では、両地方の特徴を持つ絨毯を織っているし、複数の地方を渡り歩く部族もいます。従って、この地方ごとの分類には、幾分便宜的な側面 もあります。
 

ペルシャ北西部

 
  アゼルバイジャンといえば、一般 にはイランの州の名称としてよりも、ソ連の共和国名として知られているようですが、このあたりは、20世紀の初めにソ連領とペルシア領に分割されるまでは、アラス川を挟んで独自の文化を形成していました。古代には、のちにキュロスによって滅ぼされたメディア王国が君臨していた地域で、11世紀以降トルコ系の文化が浸透したのは、中央アジアからアナトリア半島に西進するセルジュク・トルコの一部が、ここに腰を落ちつけてしまったためです。
 

タブリーズ

  イラン北西部で最大の絨毯産地としてタブリーズの名をあげることに、異議を唱える人はいないでしょう。サファヴィー朝初期の首都として、シャー・イスマイル、シャー・タハマスプ親子のもとで数多くの傑作を生んだこの町は、今日のイランでも最も伝統的な産地の一つに数えられています。  スラブ、トルコ、アラブという3つの異なる民族の住む地域に隣接しているために、早くから侵略者に悩まされることが多く、16世紀前半のカズヴィンへの遷都も、オスマン・トルコの攻勢を逃れるためだったのです。しかし平和な時代には、キャラヴァン・ルートの十字路としての地理的条件を生かし、近隣諸国や西欧との交易を推進してきました。13世紀に中国に向かう途上でここに立ち寄ったマルコ。ポーロも、次のように記しています。「町の位 置がよいので、バグダード、インド、熱帯地方などから商品が運びこまれ、ラテン商人、とくにジェノア人がここに来て商品を仕入れたりするし、またとくに宝石類の大集散地である。商人はここでおおいにもうけている。」

 

絵画風文様

  このように、外国人と接する機会が多かったせいか、タブリーズの絨毯のデザインにはどこかバタくさいところがあり、得意とする絵画風文様も、イランには珍しく遠近法を取り入れて三次元的に描かれています。ヨーロッパの名画をそのまま再現した絨毯や、肖像画ならぬ 肖像絨毯までも可能なのは、一つには、この町ではナイフの先に鉤針のついた道具を使って細かいノットを作るからです。これは他のどの産地でも見られない独特の手法で、作業が早く進み、しかも折り目が規則正しくそろいます。細かいヘラティ文様などあまりに整然としていて機械織りの絨毯のような印象を与えるほどです。

 

職工がすべて男性

  もう一つこの産地がユニークなのは、職工がすべて男性である点です。織るという女性的な行為に携わるタブリーズの男達は、さぞ柔和で心やさしかろと思いきや、重い荷物を全部女房に持たせて自分は手ぶらで歩くのは、世界中で日本とタブリーズの男ぐらいのもの、といわれるほど亭主関白とか。

 

アルデビル、ヘリズ、サラブ

  タブリーズのほかに、北西部の産地として知名度が高いのは、アルデビル、ヘリズ、サラブなど。サファヴィー朝の先祖の出身地として名高いアルデビルは、コーカサス絨毯に似た幾何学文様やヘラティの絨毯の産地。タブリーズほど色の種類は多くないのですが、同系統の渋い色調が見られるのは、どちらも西アゼルバイジャン州のマク種の羊からとれた毛を用いるためです。 小麦や果物の豊かな産地として知られるサラブでは、主としてラナー・サイズの絨毯を織っています。

 



西部(クルディスタン・ハマダン地方)

西アゼルバイジャンとケルマン・シャーの間にあって、イランと国境を接するクルディスタンは、その名の通 りクルド族の地。

 

クルディッシュ・ラグ

  従って、この地方で産する絨毯は、州都サナンダジとビジャーのものを除いては、クルディッシュ・ラグとして識別 されるもの。サナンダジとビジャーでも、織工がクルド族であることは変わりないのですが、これら2つの産地の絨毯は、明らかにタウン・カーペットの特徴を持っています。すなわち、絨毯業者から提供された材料と図案を用いて織られ、他のクルドの絨毯に比べて織目は細かく、パイルも短く刈り揃えられています。

 

クルド族

  クルド族は、ルリ族と並んで、今日まで生き残った最古のペルシア系部族と言われ、これは、彼らの話す言語が、アーリア語の初期の形態をとどめていることによっても確認されます。古来勇猛果 敢なことでならした民族で、アケメネス朝ペルシアでは、ダリウスを支持したことから、かなり広範な自由を認められたといいます。しかし、クセノホンの「アナバシス」に見る限りでは、ペルシアの帝王も、このクルド(ギリシア語でカルドゥコイ)にはかなり手を焼いていたようなのです。「・・・捕虜達が言うには、カルドゥゴイ人は山中に住み、頗る好戦的で、大王の命にも服さない。事実、嘗て十二万にものぼる大王の軍勢が彼らの土地に侵入したことがあったが、険峻な地形のため一人として帰還したものはなかったという。」というわけで、敵にまわせば極めて厄介ですが、味方としてはこれほど心強い集団もありません。19世紀のカルージャ朝の騎兵隊は、主としてこのクルド族とバクチアル族から構成されていました。筋が良いのは戦闘や馬術のみでなく、絨毯を織る腕の方も折り紙つき。ダブリーズ、カシャン、イスファンなどの町が没落した18〜19世紀にも、相当数の大作を残して、ペルシャ絨毯の伝統の継続に寄与しました。当時ガールスやビシャーで織った絨毯には、やや大胆なアラベスクやパルメット文様が好まれました。クルディスタンという州は、あくまでも後世に人為的に設けられた行政区画ですからクルドのいる場所は必ずしもクルディスタンに限られているわけではなく、一部はケルマンシャーやハマダンに住んでいます。しかし、クルディッシュ・ラグはどこでも2本の緯糸を用いているのに対し、いわゆるハマダン絨毯では、緯糸の数は一本なのでこれらの区別 は難しくありません。

 

 ハマダン州

  ハマダン州も、アゼルバイジャンと同様に、かつてはメディア王国の領土でした。ヘロドトスの「歴史」によれば、アッシリアを倒して主権を握ったディオケス2世(BC708〜BC655)は、この地に幾重もの城壁をめぐらした町を建設し、異民族の侵入に備えました。当時エクバタナと呼ばれたメディアの首都については、ヘロドトスは「城壁のうち最大のものはものは、アテナイの町の円周とほぼ同じ長さある」と述べています。11世紀のセルジュク・トルコの侵略ののち、モンゴル軍やティムールの軍隊の略奪にあい、16世紀にはオスマン・トルコの占領下に置かれた点なども、アゼルバイジャンの歴史とよく似ています。  今日のハマダンの町は、絨毯産地としてよりも、西部ペルシアの絨毯の集散地としての意義の方が大きく、ハマダン州の産地の中では、マラヤー、メヘリバン、ボルチャル、ネハーヴァンドなどが知られています。 ネハーヴァンドといえば、642年イスラム・アラブ軍とササン朝ペルシアの軍隊が雌雄を決した戦いが思い出されます。

 

 

中部

  イランの中部地方には、カシャン、イスファハンを初め、知名度の高い産地が集中しています。北西部、西部と異なり、ほとんどの地区でペルシア・ノットが用いられ、デザインにも、イスファハン州南部やバクチアル・チャハルマハル地方を除けば、優美な曲線文様で、典型的な都市型絨毯といえます。

 

アラク

  マルカジ地方のアラクとその周辺の絨毯は、すべてその品質によって「サルーク」、「ムシュカバド」、「マハル」の3種に分類する習慣がありますが、最近はアラクとして取り引きされる絨毯もふえています。「サルーク」は産地の名ではないので、サルーク村で織られたものとは限りません。もっとも、この頃では 「マハル」は市場から姿を消し、「ムシュカバド」も少なくなって、ほとんどが「サルーク」を銘打っています。これは、品質の劣るものがまったくなくなってしまったことではなく、定食の松・竹・梅が、上・並という区分に変わったようなものなのです。

 

アメリカンサルーク

  かつて一世を風靡した「アメリカン・サルーク」の、花の小枝で飾ったローズ色のフィールドに濃紺のボーダーというデザインは、今では見向きもされなくなりました。この「アメリカン・サルーク」に関しては、外国人の嗜好に追従した悪しき例との評もあります。だが、昔ながらの文様をそのまま踏襲しようとする姿勢に比べて、このような試行錯誤が無意味だなどと言えるでしょうか。

 

クム

  砂漠の端に位置したさほど大きくない町で、8代目イマームのアリー・レザーの妹の墓があることから、聖地として知られています。予言者ムハマンドにも同じファーティマという名の娘がいたため、この2人はよく混同されます。この地にはいくつもの神学校がありますが「聖地」という言葉から想像する清く荘厳なイメージとは裏腹に、甚だ散文的な雰囲気に満ちています。おまけに巡礼以外の旅行者を嫌うので、観光コースに含めることはお勧めできません。

 

クム絨毯の品質

  住民の信仰心の深さもさることながら、1930年代半ばに絨毯作りに着手して、30年足らずのうちに数百年の歴史を持つ産地と肩を並べるまでに発展させた、そのエネルギーも敬服に値します。今から半世紀前に右も左も分からぬ クムの職人の指導に当たったのはカシャンの人々でした。クム絨毯の品質の確かさは、その師に負うところが大きいのです。  しかし、カシャンと異なり、守るべき伝統を持たぬ新興産地の強みで、最も正統的なメダリオン・唐草文様から遊牧民風の幾何学文様まで、イラン各地のありとあらゆるデザインを採用してゆきました。材料も、羊毛、シルク、パート・シルクと様々な試みがなされ、絹という高級なイメージの素材に鄙びた素朴な直線文様、というちぐはぐな組合せも、クムならではの個性でしょう。

 

カシャン

  サファヴィー朝における絨毯の黄金期以前に、陶器や絹織物など工芸の町として名が売れていました。特に、インド産の動物性染料を用いた赤いタフタやビロードは、この町の特産物でした。手織のビロードの技術には、絨毯のそれとの共通 点が多く、16世紀以降の雅やかな作品群に、それまでの腕とセンスの積重ねがしっかりと生かされているのです。  自然環境にはまったく恵まれず、栽培できる穀物といえば大麦ぐらいのもの。この町の名物であるさそりは、人々の命を奪うことはあっても、腹の足しにはなりません。余りに暑いので、さそりにならったわけでもないでしょうが、人々は地下深く掘り下げた家居に住んでおり、地下からはお椀を伏せたような形の屋根しか見えません。カシャンの町がつとに手工芸産業の振興に意を注ぐようになったのも、このように他の面 では極めて不利な条件をふまえてのことだったのです。  それだけに、一旦そうした産業を支える要因が失われると、打撃の度合は甚だしく、18世紀初めのサファヴィー朝の崩壊後、町は暫くの間、荒野の中のゴースト・タウンという様相を呈していました。

 

アラクから嫁いできた妻

  前世紀末の絨毯の復活は、ほんの小さな出来事がきっかけでした。英国のマンチェスターから仕入れたメリノー・ウールをもて余していたある毛織物業が、それを絨毯に利用することを思いつき、アラクから嫁いできた妻に織らせてみました。これが見事な出来映えで、町の人達が次々とまねるようになり、またたく間に絨毯業が復活したのでした。それを支えたのは、当時タグリーズに始まった絨毯産業再建の動きだったのです。  カシャンの絨毯は、本場のイラン人の間で根強い人気があって、1970年代の石油ブームとインフレにより価格が急騰。イラン南部のヤズドやエジプトで、カシャンの模造品を産するようになったのは、この頃のことなのです。

 

 

ナイン

  ドラマチィックな歴史とは無縁の小さなオアシス・タウンで、これといった名所旧蹟もなく、かつては毛織物の産地でしたが、ヨーロッパ製品のイラン進出を機に、イスファハンの職人の指導をえて、絨毯業に切り換えました。それが1920年代のことですから、最古のナイン絨毯でもせいぜいセミ・アンティークの部類に属する程度ですが、今や大産地と呼ばれるにふさわしい、堂々たる風格の絨毯を産出するに至っています。  文様が、メダリオン・パルメット唐草や、一方柄の樹木・動物文様などに限られているうえ、配色に明白な特徴があるので、素人でも数枚見れば、ナインの絨毯を弁別 できるようになります。

 

イスファハン

  この町の日本人向けのキャッチフレーズは、イランの京都。町の古さや京都の仏寺に相当するモスクの数の多さもさることながら、住民の気質の共通 点も見逃せません。

 

町並みの美しさやイスラムの偉容

  イスファハン人にあらんずば文化人にあらず、といわんばかりの態度と、しまり屋で計算高い性格があいまって、商売に対する姿勢もひと味ちがいます。また、非常に議論好きで、理屈っぽいという評判。これは、ある意味で彼らの頭の良さを示しており、19世紀半ばにこの町を訪れたハンガリー人のヴァーンヴェリも、イスファハンの人達は「教養があり、靴屋仕立屋など詩人の幾首の詩句をそらんじる」と書いています。 人口に膾炙した町並みの美しさに加えてイスラム建築の偉容を誇る町ですが、16世紀にサファヴィー朝ペルシアの首都を定められて以来、一貫して繁栄と名声を享受してきたわけではありません。18世紀前半から2世紀近くの間は、そのころのカシャン同様、うらぶれた田舎町にすぎなかったのです。  パハレヴィ朝を建てたレザー・シャーが、それまでのトルコ系のカジャール王朝に対する反動として、その昔ペルシア系王朝の首都であり、純ペルシア風の文化が栄えたイスファハンに対し、特別 な厚遇と大規模な都市再建計画をもって臨むことがなかったら、今頃は、単なる一地方都市の地位 に甘んじていなければならなかったかもしれません。

 

京の呉服

  絨毯産業の本格的な復活もパハレヴィ朝に入ってからで、従ってライバルのダフリーズに比べると、かなり出遅れたことになります。けれども、抜群の商才を持つイスファハンの人々は、あれよあれよという間に、この町をイランでも一二を争う絨毯産地に仕立てあげました。イラン人にとってのイスファハン絨毯は、日本人にとっての京の呉服のようなもので、その意味でも、イスファハンはやっぱり「イランの京都」と言えるでしょう。

 

南部

  広漠たる古代ペルシア帝国の心臓部であったファース州は、その後も決して文明から取り残されていたわけではないのです。ファースの都シラーズに生まれ、ここを愛して生涯故郷を離れることがなかったというハーフェズ(1320?〜1389)の抒情詩からもわかるように、中世にも、この地方は詩人の霊感を刺激してやまぬ 美しさに溢れていました。また、18世紀のシラーズは、短期間でありましたが、ザンド朝(1750〜1794)の首都として大いに賑わいを見せていました。

 

ペルシャのジプシー

  しかし近年は、ファースといえばむしろ他の地方に比べて遊牧民の数の多いところとして知られ、絨毯もそのほとんどが、カシュガイ族・ルル族(ルリ)、アラブ系の集団などによる部族の絨毯(トライバル・ラグ)。これらの人々のうち、ルル族の大半は、ルリの地であるルリスタンに住んでいますが、一部はザグロス山脈を越えてファースやイスファハン南部にもいます。クルドと同様に、由緒ある(?)ペルシア系部族。だが限りなく獰猛に近い勇敢さで鳴らしたクルドとは異なり、ジプシーのように歌や踊りの好きな陽気な人達で、ハーフェズの詩の中に次ぎのような一節があります。  「微風よ!あの浮かれて酔いしれたルリーのことを汝はしっているか?そのさまはいかようか?」  黒いテントに住まうカシュガイ族は、本来トルコ系の部族で、遠い昔、北方からファースにやってきたといわれます。数ある部族の絨毯の中でも、彼らのものは最も精巧で、内外で高い評価を得ています。ペルシア系住民との同化が進んでおり、早晩世界の他の少数民族と同じ運命を辿ることになるでしょう。せめて部族としてのアイデンティティを保っている間に、できる限りの絨毯を織ってほしいと、これは多くの人達の願いです。



 

ケルマン地方

  ファースやイスファハンのように栄光の過去も持たず、近代においても工業化政策から置き去りにされてきたケルマン地方は、その一方で、トルコ系部族の殺戮にあったり、頭のおかしな王様に町を破壊されるなど、貧乏くじばかりひいているように見えます。ササン朝ペルシアの滅亡後、イスラムへの改宗を迫るアラブ人を怖れたゾロアスター教徒がこの町に逃げ込んだのは、このように辺鄙で魅力のない土地ならば、追って来る者もあるまいと考えたからでしょうか。ケルマンもまた、カシャンのように、いくつかの不利な条件をバネにして手工業を発達させた町なのです。  シャー・アッバスの時代の記録にケルマンの名があることから、当時既に絨毯産地として確立されていたと考えてよいでしょう。しかしながら、後のヘラティの原形ともいわれる文様の絨毯を初め、ケルマン産の可能性のある作品の産地年代については、すべて疑問符付きです。  カジャール朝のもとで生産されたケルマンのショールは、西欧の婦人の間で人気を博していましたが、19世紀も半ばを過ぎると、産業革命の影響で、手織のショールの需要はなくなってしまいました。その直後にタブリーズの商人がケルマンの町にやってきて、大規模な絨毯の工房を設立し、職を失って途方に暮れていた熟練労働者を雇い入れたのでした。
 

ケルマン・ラバー

  昨今のケルマン地方の絨毯のうち、とみに人気が高いのは、ケルマン・ラバー。同名の村は、ケルマンの町から40キロほど北にあり、16〜17世紀頃から絨毯を織り始めたといわれています。しかしケルマン・ラバーとして扱われる絨毯の中には、ラフサンジャンなどのケルマンの他の村で織ったものも含まれており、この名称は、むしろ「サルーク」のように、品質の高さを示す一種のブランドと理解した方がよいでしょう。


   

東部(ホラサン地方)

  ここはそのむかし、中国で「安息」と呼ばれたパルティア王国の興った地で、現在のトルコマン共和国やアフガニスタン西部をも含んでいました。アラブ人による征服ののち、ペルシアのいわば「東玄関」にあたるこの地方を通 過して、長安とバグダードを結ぶ幹線が設けられ、ここからペルシア西部のケルマンシャーを経てバグダードに至る交易路は、ホラサン街道と呼ばれていました。イランの中では例外的といえるほど快適な気候に恵まれ、羊の放牧にも適していて、早くから羊毛の主要産地の一つでした。絨毯の歴史も古く、サファヴィー朝時代には、中国美術の影響が顕著な作品を残しています。まるで絵画のように精緻で優美な曲線を描く文様は、同時期のペルシア北西部の絨毯とは、明らかに趣を異にします。これらの絨毯の多くは当時のサラサン地方最大の町ヘラート産とみなされてきましたが、中にはマシャドのものも含まれていると思われます。
 

この国最大の聖地

  現在のマシャドはイラン第三の都市で、悲劇的な最期をとげた8代目のイマーム、アリー・レザーの聖廟があり、この国最大の聖地となっています。もう1つの聖地があるクムほど商売熱心ではないにせよ、この町もまた絨毯業には力を入れており、時に底力を示す大作を創り出しています。  サラサン地方は、バルーチ族及びトルコマンの絨毯の産地としても聞こえています。パキスタンと国境を接するバルーチスタン州のバルーチ族は、密輸商売に忙しいのか絨毯作りには余り興味を示していません。しかし祖父の代に北方のマシャドやヘラート付近に移住したバルーチ族は、部族のものとしてはかなりノット数の多い絨毯を織っています。彼ら自身の長い伝統は持たないので、同じ地方に住むトルコマンの絨毯からデザインのヒントを得ています。  トルコマンの本拠は、現在のソ連トルキスタン共和国ですが、一部は古くからイラン東北部やアフガニスタン西北部に住んでおり、また共産主義政権を嫌って、難民としてイランにやって来た人々も少なくありません。

 

トルコマン

  かつては草原の海賊として悪名高かったトルコマンも、今は人さらいや追剥稼業から足を洗い、おとなしく農業と絨毯作りに専念しています。熾烈な部族間抗争や厳しい自然条件の中で生き残るためとはいえ、今世紀初めまでの彼らの極悪非道ぶりは、目に余るものがありました。絨毯を織るのは昔も今も女の仕事、父親や夫の持ち帰る獲物を待ちながら織ったであろう古いトルコマン絨毯は、気のせいか随分と迫力を感じさせます。

 

ギュルと呼ばれる幾何学的な繰り返し文様

  彼らの用いるギュルと呼ばれる幾何学的な繰り返し文様は、以前は、トルコマンの中の各部族に固有の紋章的な意義があったと言います。しかし、弱少部族の自然淘汰や部族同士の吸収合併によって、各集団の個性が薄れ力関係も失われてしまった今日、これらのギュルはすべて、トルコマン全体の共有財産となっているのです。

 

 
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