ペルシャ絨毯は、この地球で、唯一踏むことを許された芸術品。 *
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ペルシャ絨毯の概説

 
 

ペルシャという国

  ペルシャ絨毯、ペルシア猫、さらにはペルシア湾など、日々の生活でペルシアという言葉を耳にします。ところでペルシアってどこにあるの?という人も、少なくないようです。ペルシアは「現在のイランです。」と言えば最も手っ取り早いのですが、これだけで済ませるわけにはいきません。
 
 

キュロス2世のアケメネス朝

  よく知られているように、ペルシアの起源は、紀元前550年頃にキュロス2世によって創設されたアケメネス朝にまで遡ります。イラン南部のファース地方のペルセポリスを首都と定めたこの王国の版図は、現在のイランの比ではなく、東地中海沿岸地方やナイル川流域をも含み、北はコーカサス山脈、東はインダス川を境界としていました。アケメネス朝に次ぐ大帝国を築いたササン朝(226〜642)もまた、シリアから中央アジアに至る広大な地域を支配しました。
 
 

ササン朝ペルシャ

  ところが、このササン朝ペルシアがアラブのイスラム教徒によって滅ぼされると、かつてのペルシア領土はアラブ人の王朝の支配下に置かれ、そののちトルコ人やペルシア系人種による小規模な王朝が乱立して、この国は細切れ状態になってしまうのです。ペルシア人が再び統一された国民としての意識を取り戻すには、16世紀初頭のサファヴィー朝(1501〜1736)の樹立を待たねばなりませんでした。
 
 

ペルシャの地理的区分

  英国の美術評論家ハーバート・リードはペルシアの美術に触れてまず最初に、「ペルシアは、芸術史の地理的区分というものの不都合さを、おそらく他のどこの国よりもよく示している国である。」と述べています。この国の歴史や民族構成について知るほどに、「地理的区分というものの不都合さ」を深く認識せざるを得ないのです。何しろ「イラン」という国名が正式に採用されたのは、1925年のことなのですから。
 

ペルシャ絨毯の起源

  アケメネス朝ペルシアの発祥の地ファース地方。ファースはファルス、パルスなどとも発音されますが、それをギリシア風に発音した「ペルシス」から「ペルシア」という名称が生まれました。
 
 

ファース地方

  それではペルシャ絨毯の起源もやはりファース地方なのかというと、これがどうもそうではないらしいのです。元来ペルシャ絨毯は、羊毛から紡いだ経糸をベースとし、その上に別の羊毛糸を絡ませてパイルを作った敷物。のちには羊毛ばかりでなく絹や木綿も使用されるようになりましたが、基本的な特徴は、現存する最古の作品とされる「パジリク」絨毯以来不変です。パイルは、おそらくふさふさとした動物の毛皮にヒントを得たもので、だからパイル絨毯は防寒用に始まったと想像されます。  しかし、ファースはどう見ても、そのような防寒具を必要とする地域とは思えないのです。ザクロス山脈の丘陵地帯は別として、平野部はひどく暑いところで、ペルセポリスのあたりは真冬でもさほど気温が下がりません。メソポタミアでは葦で織った敷物が用いられ、イラン東南部のシスタン地方でも、一昔前までそれに似たマットを使っていたといいます。ファースにしても、むしろその種の敷物の方が気候に合っているように思われます。
 

パジリク絨毯

  冬の夜の凍てつくような寒さから身を守るための敷物、もしくは寝具として、パイルの織物を考案したのは、たぶんもっと北方の民で、中央アジアの遊牧民族であろうというのが定説になっています。これは何も、例の「パジリク」絨毯が見つかった場所がアルタイ山中のスキタイ人の墓だからというのではありません。絨毯の技術が「パジリク」のレベルに達するまでには、少なくとも数百年の期間を必要としたはずです。
 

ペルシャ・ノット、トルコ・ノット、スパニッシュ・ノット

  ところで、絨毯と呼ばれるものには幾種類があって、その中のパイル絨毯だけをとってみても、ペルシャ絨毯のみに見られるペルシア・ノット、ペルシア、コーカサス、アナトリアなどの絨毯に用いられるトルコ・ノットのほか、一本の緯糸の上に毛糸を巻き付けたスパニッシュ・ノットなどがあります。パイル絨毯以外では、最も古いとされるフェルトの敷物、ループ織りの絨毯、キリムあるいはゲリムと呼ばれる平織りの敷物等があります。  古代の記録や物語の中に、時に絨毯という言葉が出てきます、その文様や構造について詳細を記した書物は見当たりません。例えばホメロスの「オデュッセイ」の第四書において、女主人公のヘレネーが登場する場面で、"一緒についてきた(侍女の)アドレーステーがつくりのよい臥椅子をそれへ据えると、アルキッペーは柔らかな羊の毛の絨毯を運んできた"とあります。確かなのは材質が羊毛であったことだけで、パイル織りなのか平織りなのかはさっぱりわかりません。
 
 

ホスローの春

この点は、ペルシアで織られた絨毯の場合も同様で、時代は少々下ってササン朝のホスロー1世(在位531〜579)の治世の「四季をテーマに製作された絨毯の一つ、「バハレスタン」ー別名「ホスローの春」ーにしても、この世のものならぬ美しさは今日まで伝説となっていますが、意匠や構造は不明です。ただ、真珠やエメラルドなどの宝石を散りばめた絨毯ということでパイル織りではなく、平織りの布に刺繍したものであったろうといわれてます。無粋なアラブの兵士達に寸断され、影も形もなくなってしまった今日、「ホスローの春」のもとの艶姿については、空想の力を借りるほかはないのですが。

15世紀までのペルシャ絨毯

まことに不思議なことに、現在するペルシャ絨毯のうちで「パジリク」に次いで古いとされる作品は、15世紀末ないし16世紀初めまで下らねばなりません。その間2千年近い隔たりがあります。紀元前5世紀から白羊期(1378〜1501)末期あるいはサファヴィー朝初期までの長い期間、ペルシャ絨毯はまったく途絶えていたのでしょうか。作られていたとすれば、なぜただの一枚も、切れ端さえも、残っていないのか不思議です。腐蝕しやすい織物の性質を考えれば、土器や宝飾品と違い、土砂に埋もれた長い年月の間にその大半は影も形もなくなってしまったであろうことは、容易に推察出来ましょう。しかし、アナトリア絨毯の場合には、コニヤで発見された最古の例が13世紀のものといわれ、また、東トルキスタンのトルファンでは5世紀頃のパイル織物が見つかっているのです。然るになぜ、かつてのペルシアの圏内でそのような例が皆無なのでしょうか。

サファヴィー朝以前の作品

サファヴィー朝初めの作品は、いずれも、多少荒削りの感があるとはいえ、審美的にも技術的にも完成の域に近いものです。それが一朝一夕で達成されたとは信じ難く、それ以前に相当の発展期があったはずです。  だとすれば、その時期の絨毯はどこへ消えてしまったのでしょう。秦の始皇帝のひそみにならい、焚書ならぬ焚毯を命じた王様でもいたのでしょうか。だが、思想や主義主張とはおよそ縁のない、ただひたすら美しいだけの絨毯に憎悪を燃やす理由があったとはどうしても思えません。  ともあれ、この謎にみちたペルシャ絨毯の歴史を解明するには、古い文献にたよるだけでは不十分なようです。絨毯を描いた細密画も、写真のような信憑性はありません確たる証拠品を欠く現在、どの研究家も、サファヴィー朝よりも前の絨毯を語る際に何とも歯切れが悪いのは、致し方ないことなのです。
 
 

サファヴィー朝のペルシャ絨毯

 

5代目の君主シャー・アッバスの時代

  16世紀こそは、まさにペルシャ絨毯の「偉大なる世紀」と言えましょう。アク・コユンル(白い羊)と呼ばれるトルコマン王朝やイラン北西部を支配していた時代に、初期の一連の絨毯が生まれたとする説には異論がなくはありません。しかし、その白羊朝を倒してサファヴィー朝を建てたシャー・イスマイル(在位1501〜1524)の治世に、活力の溢れる作品群が誕生したことは、ほぼ確実とされています。 ひとたび弾みがつけばその飛躍は止まるところを知らぬかのように、ペルシャ絨毯は、5代目の君主シャー・アッバス(在位1588〜1629)の時代に至る百年足らずの期間に、一気に爛熟の域に到達したのです。その頃の作品で、現在欧米や、中近東の美術館で目にすることのできるものは、余りにも有名な「アルデビル」絨毯、「チェルシー」絨毯等のほか、カシャン産の絹の狩猟模様絨毯、金属製の糸を用いた「ポロネーズ」絨毯と、枚挙にいとまがありません。しかし、これらとて当時製作された絨毯のほんの一部にすぎず、時の流れの中でどれほどの数の傑作が失われていったことか。残念でなりません。
 
 
   

工房経営

一般に、博物館や貴族の邸宅に今日まで絨毯のほとんどは、王室直属の工房で作られたと信じられているようです。確かに2代目のシャー・タハマスプ(在位1524〜1576)や シャー・アッパスの時代には首都及び主要な工芸都市に大規模な工房が設立され、優れた職人と精選された材料を集めて、贅を尽くした絨毯の数々が製作されました。だが、こうした工房の所有は王族に限った事ではなく、貴族や大地主連中もまた、一種の事業として工房経営に熱意を示したといわれます。その他に、庶民向けの品を生産する絨毯業者も、もちろんいたのです。ペルシャ絨毯の種類は、だからこそピンからキリまであって、その中でピン級の物ばかり残っているのは、実用向けのありふれた品のほうはすり切れて捨てるしかなくなるまで使用されたからに他なりません。 こうした運命を辿った名もない絨毯の一部に、全人口に対して今日よりもはるかに大きな割合をしめていた遊牧民による作品があったのです。ペルシア人の中には、イル・ハーン朝(1258〜1353)名宰相で、モンゴル人やトルコ系部族に関する歴史書を著したラシット・ウッディーンのように、今日の文化人類学や民族学の祖と言える人もおりました。(もっともラシット・ウッディーンは厳密にはユダヤ人だったのですが。)

高価な輸出品

16世紀から17世紀にかけての逸品についていえば、これらの輸出品として、つまり現在と同様に重要な外貨獲得のための商品として、国家から奨励されたのです。贈与品としてペルシアから出て行ったものについては、国王や大使の書簡が残っています。 一方、大半を占める輸出品の方には、手紙など添えられるわけがなく、輸出された絨毯に関する記録らしいものが何もないのは、当然のことといえます。

シュライン・コレクション

さらに、「アリデビル」絨毯の例に見るように、モスクや聖廟に献納された絨毯も少なくなかったようです。就中、マシャドのイマーム・レザーの廟に信者から寄進された絨毯は厖大な数にのぼり、かつてはシュライン・コレクションと呼ばれて、世界中にその規模と質とを誇っていました。

アルデビル絨毯

しかしながら、これらの「聖なる」絨毯は、必ずしもその身分にふさわしい待遇を得ることは出来なかったようです。1539年に完成してサファヴィー朝の先祖を祀る寺院に納められた「アリデビル」絨毯の場合、同モスクのドームの修繕費を捻出するために、19世紀後半にマンチェスターの貿易商に売られたのです。その時の彼女ら(この絨毯はペアーで製作されました)は、見るも無残に変わり果てていました。それをロンドンのロビンソン社が買い取り、4年の歳月をかけて(これは製作に費やした期間より長いのです)元の清楚な姿に戻したのち、一方はヴィクトリア・アルバート美術館に、他方はロサンゼルス郡立美術館に、引き取られていったのでした。
 
 

18世紀以降のペルシャ絨毯

  サファヴィー朝において絨毯が頂上をきわめるのは早かっただけに、その最盛期は思いのほか短く、アッバス1世死後のペルシャ絨毯は王国の凋落と軌を一にして次第に衰えていきます。それでも、ペルシアのいくつかの地方で、絨毯作りは続けられました。18世紀から19世紀半ばにかけては、クルディスタンなど西北部で注目に値する作品が生まれています。これらは、サファヴィー朝の絨毯とは異なり、その大半がトルコ・ノットを用いたものです。
 
 

異国趣味

  同時期のヨーロッパに目を転じると、そこでは異国趣味が流行してオリエントへの憧れが人々の心を捉えていました。16〜17世紀の大航海時代に珍重された香料や茶をはじめとするオリエンタル・ラクシャリーの西洋社会への浸透に続いて、ペルシアやトルコの絨毯、カシミールのショール、中国の陶磁器などの品が、新興階級の関心をひきつけていたのです。
 

イスタンブール

  こうした風潮に乗じて、ペルシアの商人達は、斜陽貴族やら昔の金持ち、さらには維持費にもことかくモスクなどから使い古しの絨毯を買い集め、タブリーズを拠点としてヨーロッパに輸出したのでした。東洋と西洋の接点であるイスタンブールには、イギリス、ドイツ、オランダなどの商社マンが、イランから黒海経由で運ばれてくる品を待ちかまえていて、そこから彼らの手で本国に出荷されていきました。これらの絨毯は、古ければ古いほど喜ばれました。いかにもできたてほやほやといった外観の絨毯は、古物収集に情熱を燃やす西洋人には受け入れられなかったのです。
 

カジャール朝の放蕩者

  当時カジャール朝下のイランは、無知豪味な君主のために北方や東方の領土をロシアに奪われ、インドとの国境地帯をイギリスに占領されるなど、惨憺たる有様でした。何しろ第四代のナーセル・ウッディーン・シャー(在位1848〜1896)に至っては、パリとウィーンの万国博覧会を見に行く金が欲しくて、石油発掘権その他を英・露に譲り渡したという人物でした。国は疲弊し、人々を無力感が襲っていたこの時代、イラン人にとっては手っ取り早く金を稼ぐことが先決で、絨毯の芸術的価値などに関わり合っている余裕はなかったのです。従ってヨーロッパ人がペルシアから国宝級の品を持ち出すことは、さほど難しいことではなかったようです。この辺の事情は、明治の初期に浮世絵や陶器を二足三文の値で欧米に売り払った日本の場合とよく似ています。
 

ペルシャ絨毯業の復興

  それにしても、ペルシア国内でかき集められる中古品の絨毯には限りがありました。ある日それに気付いた商人は、需要を満たすには新たな絨毯を生産するほか無いという至極当然の結論に達しました。使い古しの絨毯を新品のように見せるのには魔法の杖が要ります。新しい物を古く見せるのは簡単です。少なくともタブリーズの商人は、そう考えました。そこで地元に工房を設けると共に、ヘリズや中部のアラク、南部のケルマンなどに出かけてゆき、彼らの指導者のもとにヨーロッパ人やアメリカ人の趣味に合いそうな色と柄の絨毯を作らせることにしました。巷には失業者が溢れていたので、この絨毯業の復興は多くの土地で歓迎されたのでした。  イラン全土に再び絨毯が蘇ってから、また百年もたっていません。その間、二度の世界大戦によるヨーロッパ市場の衰退や、アメリカとの関係の強化など国際情勢の変化に対応して、絨毯も新たな試みを余儀なくされました。また国内では、イスラム革命やその後のイラクとの戦争により、不穏な日々が続いています。幸い、銃後を守る婦人を中心として、手工業分野における労働力にはこと欠かないようですが、素材供給、品質管理などの点では、現在のように不安定な状況は好ましくありません。  けれども、振り返ってみれば、太平の世に天寿を全うできたペルシア人は、どれほどいたでしょうか。極端といえるほどのロマンチシズムと現実主義を合わせ持つ彼らは、異民族との攻防戦や同族内での抗争に明け暮れる一方で、壮麗なモスクを建て、詩を詠み、絨毯を織ってきました。戦いの日も平和の時も、女達は糸を結ぶことをやめません。彼女らを取り巻く現実が過酷であればあるほど、そこに織りなされる世界は、憧憬と幻想の度合いを深めていくのです。

 
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